宇宙の実りはどこまでも
ご近所のご夫妻のある日の会話。
うちの門の植木を見ながら。
妻「ずいぶん大きな実がたくさんなってるわよね」
夫「んー」
妻「あれ何かしら? アンズ? 梅ならもっと青いわよね?」
夫「ばかだなぁ、お前、あの色見ろ、アンズだろ」
妻「あぁ、そうね。アンズね」
夫「アンズだよ」
すみません、梅です。
私がほっておいたので、橙色に熟した、梅の実です。
ということが、ちょっと前にあったのですが、今年のうちの梅の実は豊作でした。
わさわさと、まさにたわわに実りました。(♪ たわわ・・・ たわわ・・・)
もがねば、早くもがねば・・・ と思っているうちに、雨風でぼたぼたと落ち。
これはあんまりだと半熟くらいのころに少し(ほんとにちょろっと)収穫。
しかし、はしごで届かないところに黄金の果実たちはたわわなまま。
梅雨入りした今は、完熟した実が風がふかなくてもポトンぽとんポトンと落ちてまいります。
収穫できた実がどうなっているかというと、まだ手をつけてないんですけど、ジャムに変身させてあげられるのだろうか、私よ。
梅の実ちゃん達との、この一連のやりとりは、豊かさを受けとるって・・・ ってことを色々と感じさせてくれます。
例えば、受け取りベタってありますよね。
こんなに受け取ってもよいのかとか、私なんかが、って思っちゃったりとか。
チャンスがあっても自分ではいかしきれないかも、って留まったりとか、踏み出すのがこわいとか。
私も「収穫したって、自分で梅仕事とか絶対やらないしなぁ」って思っていたので、なかなか腰が重くなっちゃってたんですけど。
でも、思ったのです。
その実を掴むことだけが、「受け取る」ことではないんだなって。
梅の実が、じょじょに色づいてゆくのを目にしてた時間、楽しかった。
花が咲いたときに「今年は実るかな」って想像したときから、もう微笑ましかった。
青梅がいっぱい実って「梅干しつくるか・・・ まぁ、ムリか・・・」って自分のなまけもの具合を再確認するの、面白かった。
どんどん熟してくる実が落ちてくるたび、「ひゃぁ~ 足の踏み場がない~ 踏んでしまう~」とか想いながら拾うの、自分で笑っちゃう。
落ちてつぶれた実に、アリさんやダンゴ虫さんが集ってるのをみて、「おいしいんだね、でもゴメン、掃除しますから」ってヒドイな自分、って内心つっこんだり、バカみたい。
梅の実がみのる。
それを想い、目にしたときから、いろんな豊かな瞬間があった。
せっかく立派な実がたくさんあるのに~ って、ジャムやウメジュースにしてあげられないでいる自分にはがゆさを感じもするけど、その気持ちさえもなんだか楽しい。
いや、ちゃちゃちゃっと、やっちゃえば出来るよ、私。
みたいな誰も聞いてないのに心で言い訳しちゃってる自分に気付くと、はいはい、そうですね、って、ダメな自分がかわいいなと思う。(これも言い訳かもw)
目に見える結果は、なにひとつないんだけど、それでも、ひろった梅の実の表面のふわふわした産毛とかも感じたしね、なんて思ったり。
これだけいろんな、美しいこと、嬉しいこと、ばかばかしいこと、がっかりなこと、楽しいこと、見てきて感じてもなお。
いまだに、枝には黄金の梅の実がなっているのです。(6/14現在)
おそるべしですね。
宇宙の豊かさは果てがありません^^
「現実の梅の実」には確かに限りはありますが。
つむがれた観察日記のような日々の先には、まだまだ「来年はどうなるかなぁ」って夢見る余地さえ果てしなくあるのです。
それをどんなふうに「受け取るか」は自由。
なんなら「受け取らないとき」「受け取れないとき」にも、享受してるものがちゃんとあるんだなって。
そんなことを感じました。
あぁ、でも、梅ジャムあったら、すっぱくて美味しいだろうな~
なーんて妄想も、宇宙の実り。
実現できたら、それも素敵ですよね。
がんばれ、私の食い意地^^
(これは某クレーンゲームの神があたえたもうた豊かなお菓子たちw)